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桜咲くか・・・ [うつ_家族]

3/10

前述投稿した甥っ子の国立大学の合否判定は・・・


『 合格 』


でした〜〜〜〜〜めでたい!
恥ずかしくも隠すことでもないので書いちゃいますが


東京大学 、です


母方の叔父さん2人は東京大学出身でした
こういうのって近所に話すとボワッと広がります
だからって嬉しいことだからいいのですけれどね
お隣さんはしつこいですよ〜
もう亡くなって数年経っている叔父たちのこと
未だに東大出身ですものね〜と会話の端々に入れてきます
(こういうご近所にはなりたくない)
多分おばあちゃんがひけらかしていたのでしょう

私は聞かれるまでは言わないようにしようと思ってます

当日は家族でお祝いしたのかな
こういう時、家が離れているのは寂しいです

甥っ子よ、おめでとう
楽しい大学生活を送れるといいね










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甥っ子 [うつ_家族]

私には兄のところに男の子がいます
甥っ子ですね

今年大学受験を頑張っています
高2から塾に通い勉強を頑張っていました

中学受験をして高校までエスカレーターで進学しましたが
この学校が進学校でして
授業の合間の休み時間も
率先して勉強をしている学生ばかりだったそうです


さて、では大学はどうしようとなった時
理系の勉強が得意・・・というのは
本人が自覚しているのですが

何かになりたい、とか
この勉強がしたい、とか
明確な進路を見出せずにいました

そこで塾の先生や学校の先生と相談した結果
ものすごく頑張って勉強して
入れる大学に行ったらどうか・・・

という目標をたて
一心不乱に勉強しました


滑り止めの私立は合格出来ました
(進学したらトモミ先生の後輩になります)

本命の国立は明日、結果が出ます
かなりの難関大を受験しました
大丈夫かな〜合格できるのかな〜

家族はハラハラドキドキしていますが
本人は平然としています
受験が終わって気が楽になったのかな?

どうか合格しますように。。。











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父 その2 [うつ_家族]

(前回の続きです)

父は退院し、家で好きなテレビを見て横になっていました
うちのテレビは映りが悪かったので
家電屋に行って液晶テレビとアンテナを購入しました
父のためです、とても喜んでいました

そのうち背中が痛いと言い出し
私が飲んでいた痛み止めの薬(ロキソニン)を飲ませました

通院中も痛いと医師に告白し、入院した方が楽なら
手続きを取りましょうと言う医師に

私だったら家がいいと思ったのですが
父は入院を希望しました

娘さんに話があるから先に待ち合わせ椅子に座ってお待ちください
と医師が言うので、私だけ残りました

医師は
お父さんはもう長くないです
お父さんに告知しますか?

私は
若い頃、胃潰瘍になった時に死ぬほど不安がっていた経験があるので
寿命云々は伝えたくないです
兄にもどうしたらいいか確認します

と言い、寿命はあとどれくらい・・・
と聞き返しました

半年から1年、重傷になるにつれ短くなると思います
と聞かされました

くれぐれも本人には話さないでほしい
と念を押してきました

兄に連絡すると
話さない方がいいだろう
もちろん母にも・・・
と言っていました

最後の入院時には
父のおトイレに母がついて行くようになりました
背中の痛みは全然取れませんでした

医師からは
全身に癌が転移しているので
覚悟してください

一回お兄さんに来てもらえませんか?
と言うので
会社から帰り途中に電話をして
面会時間ギリギリに入れました

兄はとても怒っていて話になりませんでした
延命治療はどうしますか?
と聞かれ
今までの経緯は妹から聞いていますが
延命治療はしないでほしいと兄妹で決めています
多分父もそう望んでいると思います

と医師と話し決めました

面会に行くたびに
力弱くなっている父を見るのが辛かった

ある日、父が
もう少し早く(午前中)に来てほしい
と言うので

私は
母も私もこれ以上早くは来れない
ごめんね
面会時間は午後だから
医師に許可を取らなくちゃいけないと思うよ
でも私もこれが限界だよ、ごめんね

父は
もういい!
と怒ってしまいました

気まずい雰囲気の中家に帰りました


そして翌日、朝10時に病院から電話が来て
心肺停止状態なので、できるだけ早く来てください
と連絡が来ました

母を急いで起こし、洋服を着させ
自分の準備をして病院に向かいました

病棟に入ったら
昨日までいた病室から個室に移されていて
お亡くなりになりましたと・・・
死亡時刻は・・・

母は大声で
おとうさ〜んと言って泣きました
私は心が無になりました

兄に連絡したら
家族旅行に行っているから病院に着くのは夕方になる

なぜ家族旅行なんて行っているの?
と思いましたが、何も言いませんでした

母の兄2人に連絡して来てもらい
母の相手になってもらいました

霊安室で兄が着くのをずっと待っていました

父が契約していた葬儀屋さんも呼んで
お式の話は兄に任せようと考えました

夕方、兄家族がやっと病院に着いて
葬儀屋さんに遺体を預かってもらい
(父が亡くなったのは8月中旬で暑かった)

私達は家に帰り、兄と葬儀屋さんで話し合いが行われました

母には無理なので、兄が喪主を行いました

兄のお嫁さんに
たぃちゃん、食べてないでしょ
ガリガリになっているよ
と指摘されました

確かに面会中、一日おにぎり一個で済ませていました
鏡なんかほとんど見なかったから気がつきませんでした



父は晩年、鬱病の母と躁鬱病の私を支えてくれました
私の携帯の待ち受け画面は
精神科に通った時に
2人が手を繋いでいる後ろ姿の写真にしていました

父は我が儘で、怖くて、とても優しい人でした

最後の面会の時にお父さんの希望通りに
してあげられなくてごめんね

お父さん、大好きだよ










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父 その1 [うつ_家族]

前回、父の話を書いたので
父を思い出し投稿しています

父は70歳で他界しました
癌が原因です

腎臓がステージ4で左側が壊死していて
周りに転移していないかも含め手術をしました
何時間もかかる手術でした

鬱病で苦しんでいる母は家に置いて
母のお兄さんに来てもらって一緒に待っていてもらいました

私は1人で待合室でずっと待ち
手術室からの直通携帯を持たされ
連絡を待っていました

予定時間から2時間も経った頃に
私から電話をし
予定よりかかっていますが大丈夫でしょうか?
と尋ねました

もうすぐ終わりますよ
終わったらお話しさせてください

一気に緊張がマックスになりました

医師は
腎臓は左側を全摘しました
右が大丈夫なので問題ありません
ただ膀胱に転移しています
これは抗がん剤を利用して治療しましょう
と言いました

そして父は今夜は起きないだろうから
帰っても大丈夫ですよ

私は車で家に帰り
母と叔父さんに手術はうまく行ったよ
ただ、しばらく通院することになるよ

母を驚かせないために少し嘘をつきました
母の精神科の医師と相談して
父のことは伏せておいた方が
母のためになるだろうと・・・

そして通院で抗がん剤の治療が始まりましたが
母は大丈夫だと言うから留守番をしてもらい
父と2人で病院に通いました

何十回と通院し
毛が抜けるのかと思ったら
父が使っている抗がん剤は軽く抜けるだけで
終われば生えてきます
と教えてもらいました

抗がん剤の治療が終了し、検査をしたところ
抗がん剤が効いてないことが分かりました
膀胱癌はどんどん増えて命を削りとっていきました

入退院を繰り返し
放射線治療もしましたが
父はどんどん痩せていきました

入院時には母を連れて毎日お見舞いにいきました


(続く)










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お彼岸 [うつ_家族]

24日の日曜日、秋のお彼岸にてお墓参りに行ってきました

前日、夕方にシャワーを浴びて夜は早々に寝るつもりでした

が、慣れないことはしちゃいけません

24時過ぎないと横になる気がしません

そこをなんとか頑張って23時に布団に入りました

睡眠薬を飲んでないから、寝られない寝られない

2時に目が覚めて、もうひと声寝てやっと3時

寝坊するより早起きしたほうがいいやと起きました!

テレビをつけたら結構放送していたのですが

録画して見ていないドラマを思い出し

頭がボケっとしながらドラマ鑑賞で1時間過ごしました

4時すぎた頃に睡魔に襲われ、グッと堪えて

歯を磨いて朝ごはんをいただきました

ここから朝のルーティンをゆっくりこなし

9時に出る予定だったけれど、8時半に出かけました

天気は秋模様の晴れでした

1時間半電車に揺られ、車でくる兄と合流したのが10時半

そこから霊園に向かい、途中お供花を買って

お墓に到着

兄はお墓に水を撒いてくれ、私はお線香を着火し

二人で手を合わせました

その後レストランに移動してランチを食べました

お昼前に入ったから駐車場を並ぶことなく入ることができ

イタリアンレストランで生ビール(兄はノンアル)と
ピザとパスタとケーキとドリンクで満腹に・・・美味しかったです

話は終始サッカーのことばかり

あとは兄家族の様子をちょこっと聞いて、またサッカーの話に・・・

レストランを去る時には待合所がいっぱいになっていました

お代は兄持ち、よっサラリーマン万歳

ご馳走様でした ww

私は最寄駅で降ろしてもらい、兄と別れ

電車に揺られて帰ってきました

家に着いたのは14時

17時から浦和レッズvsガンバ大阪戦をネット配信で見ました

兄も見ると言ってました

それまでに山下達郎さんのラジオの見逃し配信を聴きました

横になって寝ちゃいそうでした

夜ご飯はヘルパーさんの作り置きがあったし

今日はちゃんと薬を飲んで寝たいと思います

と思ったけれど、翌日はヘルパーさんが午前中に入るんでした

睡眠薬は抜かなくちゃ

午後は予定がないから昼寝しました

朝は涼しくてエアコンなしで過ごせましたが

日中は陽が強く、結局エアコンを付けました

秋はまだかいな〜〜










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電話友達だった叔父さん [うつ_家族]

17日(土曜日)

いつものように起きて
午前中、時間に余裕があった日でした

滅多にならない家電がなりました
叔父さん(母の兄)が緊急搬送され
入院したのだけど、もうあまりもたないから
顔だけでもみにきてやってくれませんか・・・

と叔父さんの長男(私の従兄弟)から連絡が入りました

すぐに兄に電話して、そう言って連絡をくれたのだから行こう、
兄は車で行くと言うので
私を途中で拾ってくれる?と聞いたら

いいよ

と兄が言ってくれたので
ゆっくり支度して
兄と合流して
二人で病院に向かいました

叔父は90歳
帯状疱疹の後遺症で、足の痛みがあり
歩行困難の状態でした

ちょうどその日の午後
私は久しぶりに叔父に電話をするつもりでいたのに
こんな対面をするなんて・・・

叔父とは定期的に電話をする間柄でした
叔父は私を心配してくれ
私は叔父を心配し
お互いを元気付けていました


お顔を見るととても顔色は良かったけれど
救急車を呼んだ時には黒々とした顔だったそうです
息が大きくて苦しそうな呼吸をしているところを
同居している従兄弟のお姉ちゃんが夜見つけ
救急車を呼び、危ない状態であるとエクモをつけて
呼吸を助ける処置をされたそうです

重度の肺炎

普通なら個室で処置するところ満室で
大部屋にかろうじて
入り込むことができたそうです

叔父は一生懸命呼吸していました
手を触ったら内出血して腫れ上がっていました


今日叔父さんに電話するつもりだったんだよ
遅くなっちゃってごめん
また電話しようよ
叔父さん叔父さん!!!!

叔父は一生懸命呼吸していました
意識もありません

ああ、1週間早く電話していれば・・・

長居はできなかったので15分くらいで失礼して帰路につきました

まだ最悪の連絡は来ていません

叔父さんが目を覚ましますようにお祈りするばかりです












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父の月命日 [うつ_家族]

今日は父の月命日

いつものように
父と母の遺影を仏壇から連れてきて
月命日の会を開きます

亡き父には小さめのグラスに日本酒を
亡き母と私はノンアルコールワインを半分こ
おつまみにハムやタン塩のスモークを用意して
私が一方的に話しながら飲食するというもの

懐かしいことなどを話し
明るい会にしています

よく忘れずに毎回できているなと
自分を関心しています

亡くなってから一度も欠かさず開いています
私の楽しいひとときです


今週は歯医者に行きます
歩いて15分強の最寄り駅の近くにあるのですが
重要資料をポストに入れること
年賀状印刷の依頼をしてくること
一緒にやりたいことリストに入っているので
一気に終わらせてきたいと思います

またまたいくつもやろうとしている私
焦らなくていいけれど
外出するなら全部してしまえと思ってしまいます

これ以上やることを増やさないように気をつけます

もう年賀状の準備・・・
年末に向かって動き出します・・・










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父の命日 [うつ_家族]

昨日は父の命日でした

癌になり、入退院を繰り返しました
部位も手術で摘出し、転移しては手術を繰り返し
その度に余命宣告は短くなっていきましたが

父には余命宣告しないでほしいと医師に訴え
私にだけ医師は話してくれました

なぜ父に教えなかったって?
かかりつけ医には怒られたけれど
「わずかな時間を自分の意思で生きる」ことは
父は生きる気力がなくなってしまうかもしれない
父はそういう人だ
誰だって死は怖い

兄に相談したけれど隠した方がいい、と言った
やはり父はそういう人だと言っていた

医師に怒られようが、子供の方が父を知っている
毎回面会に言って、何を話すことなく横に座っていた

父が亡くなった時を想定して
ゆっくりゆっくり、写真を撮ったり
誰に知らせた方がいいかなど聞き出した
通帳や実印や保険証書などどこにあるか教えてもらった

癌になったんだから一応ね、、、と誤魔化した

毎日毎日面会に行ったのに
亡くなったのは朝ごはんを食べたあとらしい
面会できない時間帯だ
お父さん、もう数時間遅くまで頑張ってくれたなら
お母さんと私とで見送れたのに・・・

夏の暑い時期だったので
冷房の効いた霊安室に入れられた
中に入ることはできず
小さい窓から覗き込んだ

兄家族は避暑地に旅行中だったが
引き上げて病院に向かってくれることに

兄家族が着くのを待って
父は葬儀屋さんの霊安室に移動することに

私らは葬儀屋さんの営業マンと家に帰り
お葬儀の準備をしました

父が亡くなった悲しみを抑えながら
いろいろなことを決め
参列者は親戚と兄の会社の人がメインになるから
兄がどのくらいくるかを決め
葬儀を滞りなく済ませました

細かいことは兄に任せ
私は母のフォローをしました

今でも鮮明に覚えています
病院を出ると晴天の青空だった
父は苦しみから解放されたんだなぁと

今頃、母と喧嘩しているに違いない
母と仲良くするんだよ〜

毎年父の命日、月命日の会を
オグリと二人で開いている
お父さん、
お酒を交わしましょう










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父との思い出 [うつ_家族]

母のことを前記事で書いたので
平等に父のことも書きたいと思います

父はハンサムでクールで
会社に勤めていた時もスタッフみんなに好かれていました

私が子供の頃、お中元やお歳暮を山のように貰っていました
私はフルーツの缶詰が好きで、よく貰っていました

父は外面がよく、けれど家族には厳しい人でした
ご飯をきちんと食べないと頭を思いっきり殴りました
怖くて言い訳は言えませんでした

父が会社から帰ってくると
テレビ権は父のもの
ニュースや野球を見るので
子供達には不評でしたが我慢しました

ちなみに私が音楽番組を見始めたのは
中学に入ってからです
小学時代は林間学校や修学旅行ではみんなと一緒に
歌謡曲を歌えませんでした

その話を父にしたら
音楽番組を見させてくれるようになったのです

いわゆる亭主関白
兄がベビーの頃に夜泣きをすると
うるさくて寝られないと怒鳴るので
母は夜中、兄を抱っこして外で過ごしたそうです

また
会社から帰ってきた時に
夕食にありつけないと怒ったそうです
共働きの母はそれは大変だったそうです


でも運動会や文化祭や発表会とかがあると
仕事の合間をぬって見にきてくれて
帰りに美味しいものを食べさせてくれました

私はその時テーブルマナーを覚えました

私だけ特別に連れて行ってくれていたのかと思ったら
先日、兄がポロッと、自分も連れて行ってくれていたと
教えてくれました

機嫌がいい時は優しい父でした

晩年は性格が丸くなり
怒る事もなくなりましたが
母には厳しかったように思います

母が鬱病で家事をするのが困難になる寸前
冷奴にかつおぶしと醤油をかけて出した時
母はカットしないで一丁丸ごと出したのです
(そんな出し方は初めてでした)
父は猛烈に怒って
こんなもの食べれるか!と母を叱りました

母はもう料理ができないと泣いてしまいました

その頃から母のうつ病の状態が酷くなりました
毎週一回の心療内科も父が付き添ってくれるようになり
入院時も一緒に面会に行ってくれました

自分が病気になっても母のことを心配していました
母が電気療法を受ける時
父は脳梗塞で倒れました
幸い後遺症はなかったのですが2週間、検査入院をしました
自分が入院しているのに、母のことを深く心配していました

私は母の面会に行った後、父の面会にも行きました
私はもうすでにうつ病と診断されていたのですが
二人とも面会に行きたくて
かなり無理をしました

父が退院して母が退院して
通院生活になった時も
母と手を繋いで通院していました
微笑ましい光景でした

怖かった父
優しかった父
どんな父も大好きです










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母との思い出 [うつ_家族]

先日、ヘルパーさんと話している時
亡き母の話になって思い出したことがありました

父の会社が倒産し、会社員になりたくなかった父は
トラックの運転手になりました

毎年、母が頑張って青色申告を泣く泣く作成していました
そして母は終わったご褒美にデパートで気に入ったものを買ってきました

ある時、日本人デザイナーの冠婚葬祭用の皮の黒バッグを買ってきて
私はそれを見て「ダサっ、返してきなよ」と言いました
冷たい娘だったなあと思います

ヘルパーさんが言うには、その頃はデザイナーズバッグが流行っていたそうです
母の好きにしてあげれば良かった
可哀想なことをしました

母はそういう冷たい私を嫌っていたと思います
一番近い家族だから頼ってくれていましたが
喧嘩をすると私のことを「化け物」と言って怒鳴っていました

でも私に言わせれば「ごめんなさい」「ありがとう」を
絶対に言わない母が嫌だった

あ、落ち込んできた

良い思い出も沢山ある

お母さん、ごめんね
そして、ありがとう

明日は母の誕生日、大好きな甘いものを用意するね










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